ソラのメモ

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help リーダーに追加 RSS 福岡での講習会へ行かれた方のブログ紹介。 大宰府の意味。

<<   作成日時 : 2008/07/01 10:52   >>

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【地球のナゾを解く】 第一回福岡講習会 「宇宙の始まり、地球の誕生」に参加された方のブログ紹介です。

Kimiのブログ: ソラからの伝言福岡講習会

会場の写真、太宰府天満宮の力石、大宰府近辺のソラ画像などの紹介、
そして、講習会で話された内容を書いてくださっています。

「原子が宇宙から地球へ降りてきてせっかく物質になっても、人間は利用するだけであとは知らん顔で平気でポイと捨ててしまったり、また排泄物を汚がったりするので嫌になっていると。処分する時ももっと感謝して欲しいと言うお話で思い切り反省しました。」
と書かれているのは関心があり、人間のために色々な物になってくれた原子達への感謝の思い、
特にゴミを出す時にお世話になった感謝の思いを忘れることが多いなと反省しました。

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ソラと雲の思い:福岡にて

太宰府天満宮の石垣とその感想、面白いイシカミ雲を紹介してくださっています。

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ソラとイシカミさん: 福岡へ その1 その2


沢山のソラ画像と太宰府天満宮の石垣の画像を紹介してくださっています。

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菅原道真については、
ソラからの情報を知って:菅原道真=蝉丸 百人一首の意味 でも一部ご紹介しています。

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ソラからの伝言のソラ画像:2004年02月14日(土)
大宰府天満宮内の岩
 より

画像


人間の歯をあらわしました。

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ソラからの伝言のソラ画像:2005年10月27日(木)
3位一体をあらわす石
 より

画像


福岡の大宰府の境内の野見宿祢のところにありました。

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2003年10月14日(火)
北九州(その1)
 より

先日、壱岐など九州の海岸沿いは地震? のため、広範囲の地盤沈下がありたくさんの島が出来たと伝えられましたので出かけてきました。

与那国島、沖縄近海 (慶良間諸島/喜界島・栗国島)
沖ノ島、十三湖、足摺岬などにも海底遺跡はあるそうですし、益田市鴨島、別府市瓜生島など沈んだと伝えられている島もあります。

福岡の埠頭でイカとイサキの活け造りをご馳走になりましたが、とても新鮮で2匹のイカは調理をされているのに、光って体液が循環していました。
それらにお礼を言っていただきましたが、食べることで早く原子に戻れるということで嫌な事ではないそうです。

イサキの方は動かなかったのでイカの方ばかり見ていたら、イサキの口と
尻尾が突然激しく動き出し、本当に口でしゃべっているようで、ソラのものが動かしたと伝えて来ました。
イサキは早く食べてもらい原子に戻るために “(自ら)網にかかった。魚 (の体験) は終わった”、と2回言っていました。

フェリーで壱岐に向かう時は暗くて景色は見えませんでしたが、
「海の下にいるものでかつて人間だったものです」 と言って、
やはり大きな地震で沈んで亡くなったと降りてきました。

「(亡くなった後) 海の中にいるので水の中のものにしか生まれ変われないと思っていた。(魚?)
人間だった時は (戦争の為に?) 悲惨で、人間というより動物の様だった」 

というようなことをかすかに伝えてきました。
壱岐での月は傘を被っていて夜中は激しい雨になりました。

【ビジョン】
“大きな三角が下から突き上げるように出てきて、次に薄い白い丸が次々出てくる。 その後、小さな青白い光がたくさん星のように現れては消える”
「この地方は大きな地震があり、たくさんの人たちが星になりました」と。


【壱岐】
魏志倭人伝の一支国と言われた島で、かってはここや沖ノ島が九州の端だったそうです。
“原の辻遺跡” は弥生時代の遺跡でした。
“オニの足跡” は巨大な穴が開いて、海水が入ってきていましたが、蒙古襲来の時に船が隠れる事が出来るように、巨人が作ったそうです。

(壱岐は、鬼ケ島とも呼ばれて、伝説では “デイ” という名の大鬼がいて、片足をここに、もう片足を牧崎に置いて海をまたぎ、フンドシで泳ぎクジラを掬ったという壮大な話になっている)

その巨人が天手長男 (アマノテナガオと言う) で、途中の天手長男神社に行った時に伝えてきました。

“オニの足跡” の近くの岩は、とても変わった岩で枕のように丸く、細かい穴が空いていて、ストロマトライトに似ていますが、それはイシカミが作ったことをあらわしたそうです。
すなわちストロマトライトは、海水で生長するのでなく、イシカミが作った (成った?) と言う事で、海水に浸らなくてもあると言う事を知らせるために丘の上に作ったそうです。

又、小さな丸い岩の間に細い線が描かれているのは、本当はイシカミなので繋がっているが、地震で離れ離れにして小島にすると言う意味で、線を引いたと知らせてきました。
http://sora.ishikami.jp/image_dir/index.php?id=20031014214009

“鬼の窟 (いわや)” は巨大な岩で作られていましたが、島には200近くの岩屋があるそうです。
天手長男が人間の為に穴を作ったそうで、
「親切に (人間の為に) 作りました」
と言っていました。

月読神社の側を通ったのですが、時間が無くて寄りませんでした。
その夜 【ビジョン】で
“小さな光の点が、UFOのようにジグザク運動をしてから5mmくらいの白い光の丸になりました”
「神社に寄ってくれなかったのが残念だった」 と。


*) UFOは、支配星によって月に隠されていたそうで、今は支配星がいなくなったのでUFOはいなく、それらしきモノは原子達が集まって形を作っているだけだそうです。

*) なぜ大きな地震にして平野を沈めたかと言うと、壱岐とその周りは広大な平野であったが、中国などから豊かな国と思われて攻めて来られ、日本は悲惨なことになるとわかったので、余り豊かでない国にするためにイシカミが自ら沈んで小さな島にしたそうです。

福岡は、割と山が迫っていましたし、大宰府から見た山が所々残雪のように白く見えるのは、イシカミは意地悪で沈めたのでなく、日本を守るために沈めたので、山肌を白いように見せるためにしているそうです。

*) “蒙古襲来” の時に暴風雨があり敵を退散させたのは、イシカミであって、日蓮はその事をチャネリングでプレアデナイから聞いて、あたかも自分が予言し退散させたように言って、権力を得たそうです。

先ほど知らせてくださったサイトで、詳しく壱岐が紹介されていますが、これを見るともっと見てきたかったと思いました。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tanabata/ikifile01.htm
(この中に、ジングウコウゴウの名前が出てきますが、私は知らない名前で、ロボットはちゃんと知って勉強していた?)

http://www.h3.dion.ne.jp/~uwarchae/whatuwamokuji.htm
より
 別府市瓜生島 
この湾内には現在島影を見ないが、伝承によれば東西3.9km、南北2.3kmにおよぶ 「瓜生島」 (別名・建部島あるいは沖の浜島) が存在したといい、慶長元年 (1596年) 閏7月12日午後2時過ぎ、出国高知沖の海底を震源とする大地震 (伏見大地震) によって、住民もろとも海没したと伝えている。
瓜生島は、室町時代頃から豊後最大の貿易港として隆盛を極め、12ケ村数千戸を有し、島の中心部分には三条の大通りが走っていたと伝える。豊後府内藩の藩士であった戸倉貞別が元禄12年に著した郷土誌 『豊府聞書』にもその名を見ることができる。
昭和41年、この伝承の島を求めて潜水艇による調査が、昭和52年には 「瓜生島調査会」 の二度にわたる海底調査が実施され、遺物や島の存在こそ発見できなかったものの、海底下地層の音響測深調査の結果、沖合750mから2kmにおよぶ扇形の地滑りを観測し、別府湾を走る活断層とほぼ平行することを確認した。今後、幻の島の探索が現実のものとなる可能性も高い。

 益田市鴨島 
島根県益田市中須町の益田川河口にも、海没した伝承の島 「鴨島」 がある。万寿3年 (1026年) の大地震で海没したといわれる 「鴨島」 は、梅原猛が柿本人麻呂終焉の地 (鴨島に流刑されその地に没したとする仮説) として話題になった。昭和52年、 「鴨島遺跡学術調査団」 が結成され、田辺昭三らを迎えて組織的な調査が実施された。水中ビデオや遺物浮揚機などを投入、島跡とおぼしき岩盤の広がりや、柿本神社の遺構らしきものも発見したが、確たる物証をえるには至らなかった。同海域には益田川から流入した浮泥やシルトの堆積も多く、調査は困難を極めたようである。今後の調査の再開と具体的な遺物や遺構の発見が期待される。

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2003年10月15日(水)
北九州(その2)
 より

壱岐で知らされた事です。

菅原道真の家来が10数人、九州まで付いて来たが泊まる所が無くてお寺に泊まり、
そこでイシカミの話をしたので、お寺の住職が、  
『イシカミを頼っても何もしてくれないので仏教に帰依しないか?』 と言ったが
皆反対したので住職は当時のそこの権力者に通報し、全員殺されたと言ってきました。

【大宰府・天満宮】
大宰府は、ダザイフ = 大罪婦 (布告の布) と言う意味から付けられた地名で、
地震の事と、女王 (ヒミコ) の事を口にする事は大きな罪 = 死罪だという規則? があったそうで、その事をヤマトは知っていて、イシカミやヒミコの事を、公開するように言った道真を大宰府に流したと言う事でした。
 
その後大宰府天満宮に行きましたが、小さな社が丁度10数個ありました。
(いろいろな神や家族、お供などの名前などは付いていましたが)

ちなみに道真は、能見宿禰 (=イシカミの子孫? 相撲取りの祖) の子孫で、
力石が置いてありました。
この日、カラスが10羽づつくらい道端に降りていてなかなか逃げようとしなく、
車の直前を何羽か横切りましたが、ソラのモノが、部下の事を知らせたので、
お知らせと言う事でした。


【吉野ヶ里遺跡】
弥生時代の遺跡で青森の三内丸山と同じく、横3本が2列の大木で物見櫓 (ものみやぐら) が作られていましたが、三内丸山より木は大分小さいものでした。

「あれも巨人が、木を立てておいたのです」  とだけ言って来ました。

大きな巨人がここにはいる、ということを知らせる為だったようです。
今は物見櫓に復元されていましたが、物見櫓だけなら 6本 も巨木を立てる必要は無いのでないか? 他の建物に比べ大きすぎると思い、巨人が立てた後人間がそれを利用したのでないかと思います。

先日お知らせしましたように吉野ヶ里では、偽・卑弥呼が治めていたようですが、
支配星とつながったチャネリングをしたために絶えず戦争をするように言われ、
戦争が絶えなかったそうです。

大きな甕棺 (カメカン) は北九州だけに見られる陶器の棺おけですが、中には首の無い遺骨や、お腹に矢が突き刺さった状態で残っていて、やはり争いに明け暮れていたのでないかと思われました。
昨夜の
「動物のような暮らしだった」  と言って来た事も合っていると思います。
わざわざ甕棺に入れるのは、死んでも生き返るかもしれないと、隙間のある甕に入れたそうです。

(当日は30度あり、余りの暑さに神経を集中して聞く事が出来ず、殆んど情報はありませんでした)


その夜、突然女性の天皇? 「ジングウ」 という文字が浮かんでくる。
女性のチャネラー (偽卑弥呼? ジングウ皇后?) は争いを好む星に支配され、
それで国が乱れた為に、女性が国を治めると国が滅びると思い、これから女性は不浄とされたと伝えられる。

又、大きな地震で土地が沈下しているのに、なぜ言い伝えられないかというと、
(イシカミが) 地震を起こしたのでその事を話すと又大きな地震が起こる、
すなわち “触らぬ神に祟りなし” と、口にする事を禁じたそうです。

筑後耶馬溪は巨石の河原で、座り心地の良さそうなソファーのような岩や指跡のような岩がありました。

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2004年4月2日(金)
道真、ヘビ文字、蒼い月。
 より

2004年4月2日真夜中

「菅原道真です。
猿丸太夫 (坂の上田村麻呂) と言われた人がいますが、
私 (道真) は蝉丸法師と言われました。
(文字のことを) やかましく言ったからです。
文字が書かれるようになったのは、仏教の経典が入ってきてからです。
それまでは文字を書いて言い伝えをされると困るので、文字を書くと蛇になると脅かしていたのです。
それでそれからも蛇の形を表わす ‘ひらがな’ を使わせたのです。

そしてヒミコ達が考えたカタカナは振り仮名だけに使わせました。
漢字も中国から来たものを使いましたが、漢字の元はホツマモジと思いました。
ダザイフ (大宰府) とは大きな罪を犯した文を書いた、という意味なのです。
位はあるように都の者には思わせましたが、共に付いてきた人が泊まる場所もありませんでした。
仕方なく寺に泊まらせましたが、密談をしたというので全員殺されました。
(以前大宰府に行った時に同じ事を伝えてきた)

私の住む家は葦引き粗末な家でした。
それであの歌を柿の本人麻呂に送ったのです。
それを柿の本が公開したので、彼も石見の国に行かされたのです。
その後を追って、小野の小町も出て行ったと聞きました。
悪者と伝えられていた出雲の人たちは良い人でした。
なぜわかったかというと船で行き来をする人が話してくれました」



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